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PISAとPISA型学力と科学的リテラシーのページ

PISA

PISA

OECD が実施する国際調査(Programme for International Student Assessmen)

PISA学力

PISAが定義する国の文化や伝統等に左右されない「市民(citizen)として生活するために必要な基礎的な学力」

科学的

リテラシー

PISA学力の論理的市中のひとつ。科学的現象に対する知識、概念の他、表現する力や解釈する力を内包する。

 ■■はじめに■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
 
 2010年に入ってから新学習指導要領が周知されるにつれて、PISAやPISA型学力が公立高校の現場でも話題に上るようになりました。
 この雰囲気は、2004年頃、私と同僚が学校カリキュラムに導入しようとしていた頃の状況とは大きく異なります。
 
 ところが当時も、今も、
 
 「結局PISAって何?」
 
 という質問は変わりません。「OECDが実施する国際調査のことだよ」と説明すると余計に混乱を招きます。(間違ってはいないのですが)
 
 そこで、PISAおよびPISAの「科学的リテラシー」をある程度詳しく説明するWebページをつくりました。
 さらに、私、末谷(高校理科教師)が授業実践で得た様々な経験を交えて考察してみました。
 参考程度にご理解ください。

 

■■PISA、PISA型学力とは■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
  PISA(Programme for International Student Assessment,PISAピザ)とは、OECDが実施する国際的な学力調査のことである。日本語訳では学習到達度調査と表現される。2000年以降、定期的に15~16歳の生徒をサンプリングして調査が行われている。(2011年から調査対象が成人に拡大)日本語訳からも分かるように、定義された「標準学力」に対して、各国がどの程度達成されているかを測定する調査である。(ちなみに欧米ではPISAはピザと読んでいるが、日本では濁らずにピサと表現する人が教育学者を含めて多い。時々こだわる人がいるが、本質的でないのでどっちでもいいと思う)
 
  一般に学力と言っても、様々な観点から多様な意味があり、こうしたことを論じる学力論は、教育を語る上での重要なキーワードである。PISAが定義する「標準学力」は、国の文化や伝統等に左右されない「市民(citizen)として生活するために必要な基礎的な学力」という意味をもたせた「リテラシー」ということばで論じられている。
 
  現在、一般的に使われている(乱用されている)「リテラシー」は多義であり、PISAもそのひとつにすぎないが、大規模かつ長期間(1997年~)に渡って検討された内容だけに論理的な完成度は高いと評価される場合が多い。この定義に従って問題を作ることで、正答率を国際比較することに一定の意味を持たせている。このように定義した「標準学力」をPISA型学力と称したりする。
  同じく国際的な学力調査にTIMMSがあるが、これは「標準学力」を「知識を知っているかどうか」に限定している。これに対してPISAは「社会や生活で知識が使えるかどうか」を主に測定している点で異なり、これが最大の特徴とも言える。しかしながら、「PISAは応用力を測定している」といった説明には私個人としては大きな疑問を感じる。PISAは知識を使う力を「リテラシー」と定義しており、その主旨からすれば、「応用力」という表現は適当ではない。
 
  以上をまとめると、PISA型学力とは、
 
-- 国の文化や伝統に関係しない各国共通の「標準学力」である。
-- 知識を知っているだけでなく、社会や生活の中で使えるかどうかも「標準学力」に含める
+- 文化の差異等に依存しない各国共通の「標準学力」として定義されている。
+- (日本では応用として見送りがちな)知識を社会や生活の中で使えるかどうかも「標準学力」に含める。
 
- である。また、その学力を国際的に調査する活動がPISAである。
+ である。そして、その「標準学力」を国際的に調査する活動がPISAである。
 
 後に述べるが、「基礎」や「応用」という用語には細心の注意を払うべきだと思う。教育現場には「基礎」の徹底が先で「応用」は後という、絶対的な力学が存在する。これは一見自然な発想のように思えるが、例えば高校で「教師が一方的に話すだけの授業」が未だに一般的なのは、日本では、知識を使う力を「応用」の枠にはめることで、知識を与えることが「基礎」として安易に優先され続けてきた結果であると私は考えている。そしてこの古典的な力学は、授業だけでなく、学校行事や生徒会活動など、他の多くの場面で生徒に裁量を与えない温床になりかねない。
  PISAでは、知識と知識を使う力両方が「リテラシー」つまり「基礎」であると定義している。従って、PISA型学力に容易く「応用」の冠を与えてはならない。「応用」になった瞬間、その本来の意味とは逆に、「基礎」絶対主義たる教育現場からPISA型学力は容易く遊離しかねないと心配する。

 

 PISA調査の母体であるOECD(経済協力開発機構)が金持ちクラブと揶揄されていることからか、PISAあるいはPISA型学力が先進国の何らかの経済的な思惑と結びついているのではないか、という意見を少なからず聞く。
 確かにOECDは関税や流通はもとより、地域格差、人口問題等およそ経済に関わる幅広く多様な問題を扱う小委員会を傘下に置いている。その背景を考えれば、PISAがポスト産業社会を担う人材を理想像として描いていることは容易に想像できる。PISAの限界を知る上で、このイメージは手がかりになると私は考えている。
 PISA調査の母体であるOECD(経済協力開発機構)が金持ちクラブと揶揄されていることからか、PISAあるいはPISA型学力が先進国の何らかの経済的な思惑と結びついているのではないか、という意見を少なからず聞く。私は、この指摘は正しいし、PISAを考える上で必要な観点であると考えている。
 OECDは関税や流通はもとより、地域格差、人口問題等およそ経済に関わる幅広く多様な問題を扱う各種委員会を傘下に置いている。その背景を考えれば、PISAが、ポスト産業社会を担う人材を理想像として描いていることは容易に想像できる。つまり、PISAの掲げる「標準学力」は、その理想像(PISAではcitizenと表現している)の枠を出るものではないため、自ずとPISAが評価しうる学力にも限界があることを示している。
 これは、甚だ当たり前のことである。しかし、現在あまりにもPISAが無批判にもてはやされすぎており、当たり前に発生するPISAの限界が見過ごされていると感じている。後述するが、PISAを批判的に読み取るためには、先に指摘されたイメージは手がかりになると私は考えている。
 
■■PISAが注目されるわけ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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  PISAを理解する前に、PISAをとりまく特殊な現状を知る必要がある。
  現在、PISAは、アジア地域を含む各国の教育に旋風を巻き起こしており、日本もそのひとつである。PISAショックとも言われる。
  2010年6月に菅内閣が閣議決定した教育施策にも、「PISA○○位以上を目指す」など、重要なキーワードとして堂々と登場し、教育界でも一定の市民権を得た感もある。ランキング番組が大好きな韓国やシンガポールでも政治レベルで同様の現象が起きている。
 
  しかし、個人的に考察すれば、少なくともメディアにおいて、PISAがこれほどまでに注目されているのは、理論が秀逸だからという理由ではないと思われる。むしろ、調査の結果が発表されるたびに、その国が何位だったとか、上がったとか下がったとかで、マスコミを中心に非常に注目を集め、一定数の世論を形成するからである。具体的な数値目標を掲げることを良しとする風潮も後押しし、少なくとも現状では、PISAは、その結果(国際順位)が有名で注目されているのであり、「何を測定した結果なのか」といった根本的な問いも含めて、内容が吟味された上で高く評価されているわけでないと想像している。
 
  事実、「PISAの順位が落ちた。だから百マス計算をさせよう、ゆとり教育がだめなんだ」といったメディアの論調は後を絶たない。これは、空模様をみて明日の株価を占うような空論である。問題は、それがさも意味のあるように「知識人」たちによって議論され、具体的な教育に組み込もうとされていることである。こうなれば、空論どころか暴論である。
 
  PISAが何を測定いるのか。結果から何を得て、どう教育にフィードバックさせればよいのか。個人的には、PISAはよくできており、授業実践の経験からも、「解釈によっては」普段の授業内容を大きく充実させる力をもっていると思う。真に有意義な議論がなされるためにも、私たちはPISAやPISA型学力なるものを正しく理解する必要があろう。

 

■■PISAと各種リテラシー■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
  先に述べた通り、PISA型学力の特徴は、
 
 - 国の文化や伝統に関係しない各国共通の「標準学力」である。
 - 知識を知っているだけでなく、社会や生活の中で使えるかどうかも「標準学力」に含める
 
  である。
  
  では、具体的にはどのような形をもつのであろうか。 
  PISAのいう「標準学力」は、以下のように「リテラシー」を中心とした4つの柱で構成されている。
 
 <PISAを構成する4つの柱
 -- 数学的リテラシー
 -- 科学的リテラシー
 -- 問題解決能力
 -- 読解力
 
  それぞれの柱はさらに複数の要素で意味が具体化されている。(「科学的リテラシー」については後述)そして、例えば「科学的リテラシー」は、2002年と2006年に大規模な調査が行われた。
 
  柱ごとに意味が定義されているとはいえ、PISA型学力としての根幹は同じものであり、表現も一致するものが多い。特に2003年にOECDが発表した資料(“The PISA 2003 Assessment Framework”)からは、「数学的リテラシー」「科学的リテラシー」「問題解決能力」の3つの共通項を読み取ることができておもしろい。(おすすめは原文。OECDのwebページからフリーダウンロードできる。ぎょうせいから出版されている和訳は、私にはかえって意味が難解であった)
 
  近年、小学校などで「PISA型学力の読解力」という一枚看板で多様な教科の公開授業が行われているが、柱の共通性を考えれば、算数ならば「数学的リテラシー」、理科ならば「科学的リテラシー」を標榜する方が、より具体的にPISA型学力を語ることができると思われる。
 
  理科教師である私は、当然「科学的リテラシー」に注目している。ここではその内容を表し、その他については別にまかせたい。

 

■■PISAにおける科学的リテラシー■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
  PISAでは、「科学的リテラシー」は次のように定義されている。
 
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 ''Scientific literacy is the capacity to use scientific knowledge, to identify questions and to drawevidence-based conclusions in order to understand and help make decisions about the naturalworld and the changes made to it through human activity''
 OECD “The PISA 2003 Assessment Framework”
 ////
 
  この定義の特徴としては、「knowledge(知識・概念)」だけでなく、科学的な論拠を持って、「draw(表現)」したり「decision(判断・解釈)」したりする能力も「科学的リテラシー」であると明記している点である。
 
  さらに、この「科学的リテラシー」は、次の3つの測定可能な要素で構成される。
 
 ''■Scientific knowledge or concepts(科学的知識・概念)''
  日常生活や社会的な問題に関わる知識・概念を身につけること。具体的には、健康や環境、エネルギーの変換や保存、食物連鎖や遺伝子などが挙げられている。
 
 ''■Situations or context(科学的状況・文脈)''
  身につけた科学的知識・概念を身の回りの様々な現象や諸問題と結びつけて考えることができる力のこと。例えば、学んだ知識や概念を使って新聞などを読み取る力はこれに相当する。
 
 ''■Scientific processes(科学的プロセス)''
  科学的根拠をよりどころとして、「question(問い)」から「answer(答え)」に至るprocess(思考過程)をたどれる力のこと。ここでのquestionは、一般的には答えが存在しない、例えば価値観に関わる問題も含まれる。process(思考過程)には3種類あり、process1(プロセス1)、process2(プロセス2)、process3(プロセス3)と表現される。
 
 - process1(プロセス1)
 "Describing, explaining and predicting scientific phenomena"
  様々な現象を科学的知識・概念を使って説明できること。(末谷)例えば、落下運動を重力と結びつけて計算できること。
 
 - process2(プロセス2)
 "Understanding scientific investigation"
 科学的な証拠や情報を読み取ることができること。(末谷)例えば、グラフの形から自然法則を推察したり、色の変化から溶液の中で何が起こっているのかを理解できること。
 
 - process3(プロセス3)
 "Interpreting scientific evidence and conclusions"
  様々な現象や問題に対して、科学的な論拠を持って”解釈”できること。(末谷)例えば、課題を見つけ仮説を立てて検証できたり、論拠を持って自分の考えを表現できたりすること。
 
 ''この3つのprocess(プロセス)の観点こそがPISAの最大の特徴である。PISAは「知識を使えるかどうか」を測定していると言われているが、どう測定すればよいかをこのprocessは教えている。逆に、PISA型学力を育てるには、このprocessの考えに則って授業を進めることになる。''
 
 
  PISAで出題される科学的リテラシーを測定する問題は、全てこの3つの要素で検討される。
  例えば次の通りである。「出題の意図」の表現にこれらの側面が具体的に表現されている。
 
 
  
  
 さて、前述したこれら「科学的リテラシー」を構成する3つの要素
 
 - Scientific knowledge or concepts(科学的知識・概念)
 - Situations or context(科学的状況・文脈)
 - Scientific processes(科学的プロセス)
 
 は、その内容からも、独立したものではなく、互いに重なりあって存在すると考えるべきだろう。さらに、これら全てが「リテラシー」である以上、要素間でピラミッド構造を形成するというよりは、平面上で相互補完する関係をイメージするべきだと考える。
 
  後に述べるが、この点で、私はPISA型学力なるものを評価したい。 

 

■■PISA「科学的リテラシー」を考察する■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
  以上、PISA型学力における「科学的リテラシー」を極めて大雑把にまとめてみた。加えてOECDが発行するレポート(“The PISA 2003 Assessment Framework”等)を読んでいただければば、さらに詳しい知見が得られるであろう。 これらのレポートは、OECDが提供するページでフリーダウンロードできる。(Google等で検索すれば良い) 
 
  教育的に見て、これから得られるものは何か。ここからは私の解釈が混じるので注意されたい。
 
  私見では大きく3つある。
 
 ■PISA型学力「科学的リテラシー」の特徴 その1
  知識や概念のみならず、それらを使って考えたり、理解したり、表現したりする能力も「リテラシー」として定義している

 
  思考力や判断力、表現力は一般的に「応用」として扱われる。しかしこの扱いは、ともすると教科教育の外に思考力や判断力、表現力の育成を簡単に追いやる温床となっている、と私は考えている。つまり、知識を伝達する「基礎」が優先され、これを使う能力の育成は、「応用」として上位学校や社会に丸投げされやすいのである。
 
  現場の教員にももちろん言い分はある。おそらく第一には「授業時間が足りない」。第二には「生徒の知識が不十分である」が理由に挙がるだろう。しかし、それでもなお、思考力や判断力、表現力の育成が「リテラシー」として必要だという主張を教育の最前線にいる私たちはどう考えれば良いだろうか。
 
  思考力や判断力、表現力の育成を目的としない授業とは、極端には教師が「座して聞け」を生徒に強要する講義である。話が堅いかやわらかいか、難しいか易しいかは問題ではない。理科であれば、実験をするかどうかは問題ではない。授業者は、生徒が何を考えているのかを聞くことはないし、生徒に何をつかってどう考えさせるか、という問いも持たないのである。
  これは次のような状況を作り出すだろう。
 - 教師が一方的に語り、生徒はただおとなしく聞くふりをする。
 - 思考しない生徒は課題を解答冊子を見ながら書き写し、勝手に丸をつけて提出する。
 - 理科の実験では、与えられたレシピを順に追いながら、器具を使ってとりあえず結果を出し、成功したか失敗したかだけをレポートに書く。
 - 学校行事では、前年度と同じルーチンワークが行われ、教師が旗を振るままにしか生徒は行動できない。
 
  これらは、生徒に考えさせない、判断させない、表現させない教育の結果である。しかしこの状況は、今の教育現場に珍しいことではないし、年々ひどくなっていると私は感じている。
 
  何十年も前まではこれで良かったのかも知れない。学校という施設が、使用者に忠実な労働者を生産する場所であった時代ならば。学校を卒業したというだけで絶大な価値が生まれた時代ならば。
 
  幸か不幸か、今はそのような時代ではない。知識は使えないと意味はない。刻々と変化する状況で、自分で判断して行動しないと生きていけない。自分の考えを正しく表現できなければ他人に迎合する人生しかない。急速にグローバル化し、情報化する中で、自分と他人、自分と世界のつながりはますます重くなってきている。遠くの地における戦争や、環境問題が他人事でなくなったのはその最たる例である。一生を自給自足で生きられた時代ならまだしも、今や思考力、判断力、表現力といった能力は、生きるために必要な「リテラシー」である。
 
  「科学リテラシー」を説明する文章の冒頭には、こうした時代の変化が綴られている。この変化に対応するために、知識・概念と同じレベルで、思考力や表現力は基礎的で重要であるとPISAは主張しているのである。私はこの論に大いに説得される。
 
  知識・概念が不十分であっても、当たり前だが生徒は思考したり表現したりできる。授業時間が足りなくても、5分程度を捻出し、教師が考え抜いた至高の「発問」を生徒にぶつけることは可能である。間違っていても、それは修正すればよい。授業者の意識を変えれば、生徒を変えなくても、あるいは十分な授業時間を確保しなくても、知識を使う力の育成は可能であろう。
 
  先日、PISAの結果が公表されたとき、「PISAは思考力という応用力を測定しているので結果が悪くなるのは当たり前だ」という論評を読んだ。「応用力」という表現は気にくわないが、この主張は正しい。他の調査を見ても、概ね知識(邪馬台国の女王を卑弥呼という、1+1=2であるといったレベル)の定着は図られてきている。これは10数年前から続けられている「基礎基本の徹底」教育の成果であろう。しかし、PISAの国際順位が低下していると読み取るのであれば、生徒は知識を「使えていない」ことを意味するのである。これは、学校教育において「基礎基本」という名の知識概念の伝達が優先され、使う力の育成がなおざりになっているという主張を裏付ける。 
 
  私たち教育に携わる者は、この状況をしっかりと受け止め、思考力や表現力の育成に力を注ぐべき時代にあると思う。生徒の実体を嘆く前に、生徒に表現させようとしているか。生徒に考えさせて行動させているか。もちろん、自分の反省を含めてであるが、とかく教師は口やかましい。指示した内容を忠実に実行することだけを要求し、それで満足する。何でも生徒指導の文脈で語り、生徒の自由な発想や表現を制限することを厭わない雰囲気はないか。「○○禁止」を連発し、それが教育だと思い込んではいないか。生徒に考えさずして、どうして生徒が賢くなろうか。
  これは、普段の授業でも、学校の行事でも同じである。
 
  PISAを学校カリキュラムに生かすならば、知識や概念のみならず、それらを使って考えたり、判断したり、表現したりする能力を「リテラシー」として教員が認識し、普段の授業から、いつもの学校行事から、組織的かつ系統的に教育する姿勢を具体化する必要があろう。
 
  詳しくは書かないが、それが実現すれば、普段の授業では言語活動が充実することになるだろうし、いつもの学校行事は、生徒の裁量が増加し、生徒代表が前に出る機会が増えるだろう。
 
  つまるところ、PISAを教育に導入するということは、「授業(指導)方法の改革」を意味し、おそらく多くの教師にとって負担の多い「意識改革」が要求されるのである。

 

■PISA型学力「科学的リテラシー」の特徴 その2
 プロセスという名称を使って、知識や概念を使って思考する過程を3種類に具体化している
 
  科学的リテラシーを構成する一つの要素である「科学的プロセス」は、従来からの「科学的思考力」あるいは「科学的思考過程」とほぼ同様の意味であるが、プロセス1~3の3つに分節化している点が大きく異なる。これは、例えば「科学的思考を育成する授業」などに対して、論理的にバックアップし、授業評価の観点からも有益で具体的な視点を与えると思われる。
 
  これまでの「科学的思考力」の説明を引用してみよう。

 

 

 


  これを読んで納得できる人は少ないのではないだろうか。
 
  これまでも「科学的思考力」は理科で身につけさせるべき学力として重要視されてきた。しかしながら、実際に生徒を教育する立場からすれば、上の説明のようにその実体はあいまい(あるいは難解)で、それ故に具体的に何を教えるかは定まっていなかったように思う。
 
  事実、教育研究を司る大学附属学校の中でさえ、平然と「実験」=「科学的思考力育成」と語られる風潮があり、こういった態度を批判して、時として「実験万能主義」などと揶揄される。しかし、この批判でさえ、例えば、「生徒たちが楽しく実験をしているだけの授業」がなぜ科学的思考力育成につながらないのかを説明するには、引用したような「科学的思考力」では拠り所として不十分であった。
 
  これに対して、PISAの科学的プロセスは明確である。
  「楽しく実験しているだけの授業」では、どのプロセスにも当てはまらない。故に、PISAが定義する「科学的リテラシー」における思考力を育てることにはならないと説明できる。
 
  PISA理論を読み解くに当たって、この発見は痛快であった。
 
  附属学校にいたころから、実験観察を無批判に賞賛する雰囲気に疑問を感じていた。附属学校の理科が集まる会合では、よく実験回数の多さが自慢の種になる。しかし、「レシピを追う実験」をいくら重ねたところで、実験器具を扱うスキルの向上以外に得るものはない。思考力や表現力が身につくわけではないのに、なぜか授業検討会では、「実験」が「科学的思考力」に短絡的に結びつけられて語られるのである。
 
  PISAの科学的プロセスの考え方は、私が持っていた疑問をあっさりと解決してくれた。
 
  しかし言うまでもなく、自然を学ぶ以上、理科における実験観察は重要である。実験観察をしない理科など、英語を使わない英語の授業のようなものである。ではどうすれば良いのか。PISAの各プロセスが、その具体的な方法を示している。
 
 
  あまりにも長文になるので割愛するが、私は各プロセスと授業展開を重ねることで、科学的思考力育成の観点から「実験観察」を有意義に使えると考えている。
 
  現在、私が授業実践している内容をごく簡単に説明すると、
 
 -- process1(プロセス1)
 "Describing, explaining and predicting scientific phenomena"
  様々な現象を科学的知識・概念を使って説明できること。例えば、落下運動を重力と結びつけて計算できることなど。
 
  --- 「理論」->「実験」の展開
  板書で学んだ理論を実験によって確認する授業展開
  つまり、「確認実験型授業」
 
 -- process2(プロセス2)
 "Understanding scientific investigation"
  科学的な情報を読み取ることができること。例えば、グラフの形から自然法則を推察したり、色の変化から溶液の中で何が起こっているのかを理解できること。
 
  --- 「実験」->「理論」の展開
  実験結果を読みとらせ、一般的な理論を推察させる授業展開
  つまり、「発見実験型授業」
 
 -- process3(プロセス3)
 "Interpreting scientific evidence and conclusions"
  様々な現象や問題に対して、科学的な論拠を持って”解釈”できること。例えば、課題を見つけ仮説を立てて検証できたり、論拠を持って自分の考えを表現できたりすること。
 
  --- 「理論」->「仮説」->「実験」など
  問いに対して仮説を立案し、実験で検証する授業展開
  つまり、「課題研究型授業」
 
 
  このように、各プロセスを基にした授業展開をうまく組み合わせることにより、PISA型の科学的思考力を育成できる、という仮説である。この授業の大きな特徴は、「実験観察」を授業でどう使うか、そしてどのような科学的思考力を育成するかを明確に示すことができる点である。
 
  現在、数年にわたる授業実践を通じて、様々な成果を得られている。詳細は別の論文で述べているのでそちらに任せるが、授業者の立場からも、生徒の立場からも、「実験観察」をどう使って生徒をどう考えさせるか、という視点は、今後「科学的思考力育成」を語る上で、欠かすことのできないと思われる。その上で、「科学的プロセスは使える」というのが、現時点における実践者としての私の判断である。
 
■PISA型学力「科学的リテラシー」の特徴 その3

​ 科学的状況・文脈という名称で、科学的な学びを日常生活や社会と結びつけている
 

  これも、他と同様に、得た知識や概念が使えるかどうか、という観点から語られている。つまり、科学が学問の中で閉じたものではなく、生活や社会という文脈の中で理解する必要性を訴えている。
 
  特に高校の理科の教科書は、最近は改善されつつあるが、学問体系を重視して記述するあまり、それが実生活の中でどう生かされるか、といった観点で表現されることは少ない。さらに理科教員は、理学部系出身者が多く、応用学問を学ぶ工学部系出身者が(圧倒的に)少ないといった事情もある。例えば、物理はよく知っているが、それを使って電子デバイスの回路が組める物理教師は希である。
 
  このような背景から、授業は「学問を勉強する」ことに重きが置かれてしまいがちである。この状況は、他でも多く語られているように、「物理と化学は別」「生物と生活は別」という具合に、生徒の中で、学問が他と遊離して存在することを促してしまう。「数学など生活に役立たない」とは、多くの生徒がつぶやくことだが、これはその状況を示す典型例であろう。
 
  教師には、日常生活や社会と結びつけて学問を学ばせる努力が求められている。
 
 
  以上、私見や実体験を交えながらPISA理論における「科学的リテラシー」を考察してみた。
 
  こうした論理的背景をもった授業実践を続けて、現在(2010年)で4年目を迎えている。今ではだいぶ慣れてきて、ほとんどの授業をこのスタイルで行っている。PISA問題を模したテストのポイントは明らかに上昇している。また、教師の発問に対して、生徒は積極的に考えることができるようになり、その繰り返しは、「考える癖がつく」ことを促すデータも得られている。そして、当然、通常の模試等の成績も上がっている。
  
  また、私は授業を積極的に公開しているが、観覧した教師の反応は上々で、「教師と生徒、生徒と生徒が深い議論をしている」、「教師の発問に対して積極的に反応している」といった評価を得ている。さらに2010年度からは、学校内外の理科の教員集団でこの仮説に基づいた授業づくりを行うなど、新しい展開が図られている。
 
  このように、長期にわたる授業実践の成果として、「生徒の思考力育成」という点や「理科の授業づくり」という点などにおいて、非常によい結果を得ている。
 
 
  PISA型学力は、近々施行される学習指導要領にも取り入れられている。「リテラシー」や「プロセス」に代表される教育的な観点は、今後もクローズアップされると思われる。
  いずれにせよPISAは、その結果である国際ランキング以上に学ぶものがあり、理科教育を語る上で注目に値すると考えてよいだろう。
 
■■PISA批判 授業実践を通じた限界と問題 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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  これまで、PISAおよびPISA型学力を紹介し、数年にわたる授業実践の中で得られたいくつかの成果を述べた。しかし、「PISAは万能か」と問われれば、私は直ちに「NO」と言いたい。
 
  これは、特に低学年に対する私の授業の中で、あるいは外部の教育実践を観察する中で得られた率直な感想である。
 
  PISA型学力は、おおざっぱに言えば、知識や概念を使って論理的に思考したり、表現したり、判断したりできる力のことである。その能力は確かに必要であるし、日本の学校で十分な教育がなされてこなかったことに私は異論はない。この力を身につけることで、日本人は相当な武器を手に入れることになるとも思う。
 
  しかし、PISA型学力を標榜し、生徒に思考や表現させることが、何でも良いとは思わない。これは、PISAそれ自体よりも、授業実践する側にある問題であると言える。いくつかの具体例を挙げて、その問題点を浮かび上がらせていきたい。
 
 
事例1.PISA型学力批判 例1
  ”PISA型学力では、生徒の興味関心を測れない”
  対象学年 中学1年生 内容 身の回りの生物
 
  附属学校で、私が中学校1年生の生物分野の授業を担当したときである。植物の葉の裏と表では、体内の水分を外に送り出す気孔の数が異なる。そこで、どちらが多いか少ないかを調べる実験を考えさせた。先に述べたが、これは科学的プロセスでいう「課題研究型授業」、つまりプロセス3の授業展開であり、実験方法を仮説として生徒に思考させ、プロセス3の思考力育成を目的とする。
 
  ところが実際の授業は当初異なる方向に向かった。
 
  具体物が目の前にないと考えがまとまらないと思い、まずは植物の採取に校庭に出向いた。すると、多くの生徒が校庭に息づく様々な草花に夢中になるのである。しゃがんでじっとみていると、芝生の中にも様々な種類の植物があり、それらに隠れるように生活する昆虫も多々ある。生徒から次々に出される「これ何?」という質問。こちらが要求した、植物を適当に採取して早々に引き上げる生徒はほとんどいなかった。
 
  教室に戻っても興奮状態が冷めない。となりの生徒と採取した植物を交換したり、図鑑で植物の名前を調べたり、草相撲を始める男子生徒もいる。目的とした「実験方法を考案させる」どころではなかった。実は、この状況は私が想定した範囲内であり、すぐさま、用意していた卓上カメラを用いて採取した植物を全員に紹介したり、スケッチをさせたりする授業に切り替えた。発言等、生徒は終始積極的であった。
 
  しかし、多くの生徒が目を輝かせていたこの授業は、PISA型学力の育成という観点からは、全く評価されない。確たる科学的根拠をもった思考や表現をさせる場面がないからである。授業者である私は落第である。もちろん、この勢いを利用して、次の授業は当初の目標を達成したわけであるが、私は複雑な気分であった。
 
  歴史的にも、科学は素朴な興味関心から出発した学問である。しかし、その知に向かう根本のエネルギーをPISA型の学力観では、評価するすべはないのである。
 
 
事例2.PISA型学力批判 例2
  ”PISA型学力は、系統的で体系的な学びを約束しない”
  対象学年 小学校5,6年生 内容 理科
 
  某附属小学校の理科授業を頻繁に参観する機会があった。その学校では、伝統的に、児童が個人、あるいはグループ単位で課題を持ち、個々で主体的に学習を進めている。驚くべきは、それが低学年の頃から、ほとんどの教科で、1年中行われるという点である。教師は個々の進度、内容に応じて助言をし、定期的に発表会を主催する。高学年にもなれば、発表会は児童が司会をし、質疑応答も的を射たものが活発に出される。
 
  特にPISAを掲げているわけではなかったが、その授業は、確実にPISA型学力を育成するひとつの授業のあり方ではあった。全国的にも非常にユニークで、スタイルも徹底しているため、小学校教員の中には熱心なファンも多く、公開授業ともなれば千人以上が押しかける。
 
  しかし、である。この小学校に通う児童がもつ学力は、非常にいびつな形であることが多かった。これは、地元の中学校、高校でも一般的に知られている事実である。確かに表現はできる。疑問があればすぐに質問することもできる。授業中に手を挙げて堂々と意見を述べる姿は、他の中学生と比べても輝くような存在である。けれども、彼らは気象分野は分かっていても電気分野は知らなかった。奈良時代、飛鳥時代はやけに詳しいが、江戸時代以降は全くといって記憶にない。図形などは熱心に考えるが、数式を変形するような地道な作業を嫌った。しかも、中学校入学当時のその偏りは、高校卒業まで引きずることは珍しくなかった。
 
  なぜだろう。大きな疑問をもっていた私は、その小学校の授業参観を繰り返して完全に納得した。彼らは、小学校時代、その分野を課題研究の対象にしなかったからである。教師の得意分野、身の回りの環境や資料、自分の興味関心など、さまざまな要素が影響したのであろう、例えば電気分野は選ばなかったのである。小学校の教師はこう語っていた。「定期的な発表会で個々の学習を共有する」、と。明らかにその方法には限界があることを卒業生の実態は物語っていた。
 
  低学年におけるこのようないびつな学びは、時間とともに広がっていく。学習分野は学年進行とともに枝葉のように分かれていくが、その根本を断ち切るようなもので、これが、例えば「好き嫌いが激しい」生徒に成長していく温床となったと考えれば彼らの特性を説明ができる。例えば中学校1年生で、「私は嫌いな数学は捨てる」と宣言する生徒がめずらしくなかったのである。学校では生徒のそういった姿勢がそれこそ頻繁に問題になり、担任や教科担当は、「まずは嫌いでも学習を徹底させる」ことに多くのエネルギーを費やしていた。
 
  もちろん、いびつではなく、多くの分野ですばらしい成績をもつ生徒もいた。しかし、彼らは、例外なく塾で徹底して鍛えられた子ども達であった。そういえば、その小学校周辺には、いくつもの大手進学塾があり、繁盛している。
 
  思考力や表現力を身につけさせるため、課題研究型の学習を取り入れることは有効であろう。教育界で使われる「学び方を学ぶ」ことは確かに必要であろう。しかし、そこに潜む問題、例えば系統的で体系的な学びに限界があることは、常に認識されなければならない。子どもたちが元気に発言している様子に満足して、妄信的に突き進むことがあってはならないのである。
 
 
事例3. PISA型学力批判 例3

  ”PISA型学力における思考や表現、判断は、限定的なものにすぎない”
  対象学年 高校2年生 内容 国語
 
  PISA型学力では、「確かな根拠を持って論理的に思考し、表現し、判断する力」がその大きな柱である。これが「リテラシー」として必要な力だという主張は、全く持って正論だと思う。しかし、言語活動という広い観点から考えると、ごく限定的な力であることを私はある国語の授業観て痛感した。
 
  その授業は、仮想的な原子力発電所の設置をめぐって、生徒が推進派と反対派に別れてディスカッションするという、かなり見応えのある内容であった。主張、根拠などをそれぞれ箇条書きし、それをセオリーに従ってつないで発言を紡いでいくのである。確かにこうした授業を繰り返していけば、PISA型学力が示す「根拠を持って自分の考えを主張できるようになる」と納得できる授業展開であった。
 
  ところが途中、反対派の女子生徒の発言がディスカッションの流れを大きく引き裂いた。
 
  「いくら科学的に安全が立証されても、ヒューマンエラーが完全になくなったとしても、私は嫌なものは嫌です」
 
  ディスカッションが停止し、沈黙が続いた。推進派は反芻できず、授業者もこの発言の扱いに困惑した様子であった。(どう流れたのか記憶にないが、そのうちディスカッションは開始されたのだが。。。)
 
  確かな根拠の提示を求めるPISA型学力観による表現としては、「嫌なものは嫌」という彼女の主張は、完全に失格である。「精神的苦痛」という用語があるが、これにも普通、感情以外の外的な論拠が必要であり、彼女は提示していない。そもそも、「嫌なものは嫌」は、自分の感情を押し通し、他人の介入を拒絶する発言だともとれる。
 
  しかし正直なところ、彼女の発言は、その場にいた多くの生徒や教員が共感したのではないか。「家の隣に原子力発電所ができる」ことに対する生理的な拒絶である。授業題目に用いた仮想的な設定とは言え、おそらく彼女は、その状況におかれた自分の「気持ち」を真剣に考えて発言したに違いない。しかも、その「気持ち」は、多くの人と共通したため説得力があった。だからこそ沈黙が続いたのではないか。
 
  内容や程度に違いこそあれ、彼女が行ったような主張は日常的に見聞きする。「嫌なものは嫌」「ダメなものはダメ」「好きだから好き」。論拠は明示されず、時として独善的で感情的とも受け取られる主張である。
 
  では、こうした主張を根拠がないからと言って唾棄することは可能だろうか。根拠がはっきりしたものが価値が高く、はっきりしないものは価値が低いという見方である。
 
  これは私は「限定的に」は正しいと思う。海外に出る度に痛感することであるが、確かな根拠に基づいて思考したり、判断したり、表現したりする力は、海外に生きる人たちと比べて、明らかに日本人はトレーニング不足だと思う。この力を身につけることで、よりよく生きることもできると思う。その意味で、PISA型学力は、日本において推進すべきと考える。
 
  しかし、この授業の参観を通じて、「限定的に」正しいという見方こそが健全であると私は思うようになった。彼女の発言には、PISA型学力が設定するような根拠はない。しかし、現実には、決して無視してはならない発言である。私たちは、生徒に論理的な思考や表現を教育しなければならないが、そうでないものも大切にする態度を育てなければならないと、考えさせられた授業であった。
 
 
 
 
  以上、いくつかの授業実践をもとに、PISAやPISA型学力の限界と問題点を提起してみた。
  
  PISAおよびPISA型学力は今の日本に必要だと思う。しかし、それが全てではない。限界と問題点を認識した上で、授業等に適用されるべきだと思う。授業者自身にも、PISAを批判的に読み取る力、つまりクリティカルシンキングという「リテラシー」が求められていると言えよう。
 
 
 2010.10 末谷健志
 
■■PISA型学力と評価(追記20101128)  ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
  京都大学の田中耕治先生の話しを聴く機会を得た。広島大学附属中・高校の公開研究大会(2010.11.27)における全体講演である。教育方法学の立場から「学力と評価の問題」を探求されているそうだ。(配布された講師プロフィール資料より)
 
  講演を聴きながら、学力観の変遷にともなって評価がどうあるべきかを考えさせられた。印象に残ったのは2つである。
 
 <「『本』を読むこと」「『本』で世界を読むこと」「自分で『本』を創ること」>
 
  ”「リテラシーとしての学力」は、3つの相をもって構成される。学力の基本性にあたる「『本』を読むこと」、発展性にあたる「『本』で世界を読むこと」、総合性にあたる「自分で『本』を創ること」である。(ここでの『本』とは、広く「文化」それ自体を示す象徴的なことばとして使われている)ただし、この3つの相は、学習の順番を示すものではなく、教育の中で具体化されるとき自由に前後されるべき性質をもつ。”(田中先生講演)
 
  100分の講演の中、この説明は短かったが、私にとってリテラシーの質感を鮮やかに浮かび上がらせてくれた。
 
  これを理科に落とし込んだとき、『本』が象徴するものは、文化としての「自然科学」と読めるだろうか。そうすれば、
  理科としてのリテラシーの学力は、
 
 「自然科学を受け入れること」
 「自然科学で種々の自然現象を理解すること」
 「自分の自然科学を探求すること」
 
  という具合に換言されようか。そして、それぞれは確たる学習の順番が固定されているわけではない。こうすると、理科教師としての私の中に、それぞれの言葉から、具体的な教育場面が生起される思いがする。PISA型学力を復習する気持ちになったが、「こういう表現の仕方があるのか」と目から鱗が落ちる思いであった。
 
  学校という組織において教育研究を進めるためには、教科の枠をぶち抜いて語ることのできる「表現」は極めて大切である。これをなおざりにすると、ともすると「理科」「数学」「英語」等々、各教科がばらばらに独走し、時として衝突することも出てくる。
 
  附属学校時代に、「リテラシー」の教育実践を学校全体で進めようとしていたとき、こうした「表現」の必要性を強く感じていたことから、貴重な言葉を得たと感じた。
 
  ちなみに、広島大学附属中高等学校では、すでにこの表現を教育研究のメインに掲げられていた。その先見性の高さには脱帽である。
 
 
 <学力観に応じた評価方法、例えばパフォーマンス評価が必要>
 
 これまで何度か、この手の話を聞くことがあったが、これほどリアリティに感じられたことはなかった。
 
  正直、「評価」というと「またか」と思ってしまうほど、私はこの言葉が嫌いである。(自分が評価されるのが嫌だという意味ではない。教育現場にはびこる「形だけ評価しましょう」という雰囲気がやるせないのである)
 
  しかし、”「評価方法」を変えなければ、「リテラシー」を含めた新しい学力など生徒に身につかない。”という田中先生の主張は、極めて分かりやすかった。
 
  韓国のソウル大学が、近いうちに「パフォーマンス評価を大学入試の4割にする」という話を例に挙げて、こうした取り組みが、生徒の学力の質に大きな変化を生むことになるだろと語られておられた。
 
  今年(2010年)、私は、全く別件であるが、調査のためにソウル大学やソウル市内に赴いた。附属学校時代に行っていた韓国のいくつかの高校とのやりとりから、「韓国は詰め込み教育を行っている」という先入観を持っていたが、実際に現地で見聞きしても、韓国の多くの高校生が塾や学校の補習漬けになっている実体を目の当たりにした。しかし、どういうわけか、韓国は常に知識活用力を測定するPISAの上位国である。この謎が、今回の講演で氷解した。
 
  韓国は確かに詰め込み教育を行っている。しかし、詰め込む質が、日本のイメージのそれと全く異なるのである。田中先生曰く、評価方法として、パフォーマンス評価法が多く採用されているらしい。「○○オリンピック」と類似した問題を数多くこなす。つまり、得た知識概念を使えるかどうかを頻繁にトレーニングしているのである。PISAに強いわけである。
 
  また、別の理解でも雷を打たれた思いがした。韓国では、多数の高校生が卒業後、アメリカやヨーロッパなどに海外留学している。私はこの理由を、「国策として金銭的にバックアップしているからだ」としか考えていなかった。それだけではなかったのである。
 
  詳しくは書かないが、教員としての様々な経験から、思考力や判断力を充実させた高校生が目を向けるのは、例外なく「外の世界」である。自分という存在を国や世界の規模から俯瞰し、どん欲に知を欲するようになる。無理矢理でなく、自ら進んで「大きな夢」を語るようになる生徒を何人もみてきた。おそらく、海外留学に関しては、金銭的な援助よりもこちらの方が影響が大きい。
 
  韓国は、この教育を10年前から推し進めているらしい。なるほど、と思わせた。
 
  一介の高校教師が、大学入試を変化させることはできないが、自分が受け持つ授業、受け持つ生徒に対する評価方法から変えることは十分可能である。この取り組みは、「しかけ」として、リテラシーとしての学力にどう影響するのか。
 
  興味深い教育研究のテーマをいただいた気がした。
 
 末谷健志(2010.11.28追記)

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末谷 健志(Suetani Takeshi)

山口県立岩国高等学校

First Published 2017.

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